Courtesan
懐月堂安度

懐月堂安度

1743

懐月堂 安度(かいげつどう あんど、生没年不詳)は、江戸時代の浮世絵師。

「安度」の本来の読み方は不明で、「やすのり」とも読める。菱川師宣を始めとする菱川派が衰微した後、宝永から正徳の頃にかけて活躍した浮世絵師であり、長陽堂安知をはじめとして度種、度秀、度辰、度繁といった弟子たちを従えて工房を営み、吉原の遊女などを題材にした肉筆美人画を多く残し一世を風靡した。これら絵師の一派は「懐月堂派」と呼ばれており、安度はこの懐月堂派の頭領と見なされる人物である。ただし上にあげた安知、度種、度秀、度辰、度繁はいずれも落款に「懐月末葉」とあるだけで、自ら「懐月堂」を称したかどうかは確認されていない。直系の弟子以外にも、同時期に懐月堂派の画風で肉筆美人画を描いた者は多く現れている。

『浮世絵類考』が伝えるところによれば、安度は姓は岡沢(または岡崎とも)、通称は出羽屋源七、浅草諏訪町(現在の台東区駒形一〜二丁目)に住んでいた。師系は不明だが、その画風は実際には菱川派の影響を強く受けていたといわれる。また浅草寺や駒形堂に近い浅草諏訪町に住んでいた事と懐月堂派の絵の様式から、もとは寺社に奉納する絵馬の絵を描く絵師だったのではないかともいわれている。作は懐月堂、翰運子と号して肉筆画のみを手がけ、木版画は残していない。作には美人画ばかりではなく、「川中島合戦図」や「武田信玄像」といった武者を描いたものもある。

正徳4年(1714年)に起った江島生島事件に安度は巻込まれ、伊豆国大島に流罪に処された。安度と同じ町内に住んでいた商人の栂屋善六が、絵島を芝居見物に案内した折、そこで栂屋とともに同席した事が処罰の理由になったという。その後享保7年(1722年)5月、恩赦によって安度は許され江戸に帰ることができた。安度帰還後の懐月堂派の活動は、享保19年(1734年)刊行の『本朝世事談綺』(菊岡沾涼著)によればこの時期にも江戸で勢力のあったことがうかがえる。

なお享保15年刊行の豊島露月撰『二子山』、元文3年(1738年)刊行の同じく露月撰の『卯月庭訓』などの俳書には、それぞれ「懐月堂常仙」または「常仙」と署名した挿絵がある。また同時期の俳人に志村常仙という人物がおり、これも新島に流罪になったと伝えられることなどから、これらは安度と同一人物であるとする説がある。この志村常仙については『俳諧人物便覧』(弘化元年〈1844年〉以降、安政3年〈1856年〉以前刊行)に「宝暦二年八月二十三日卒 七十六」とあり、これらに従えば安度は伊豆大島からの帰還後は志村常仙と称し俳人として活動しており、その生没年は延宝5年(1677年)の生まれで宝暦2年(1752年)に76歳で没したことになる。

Wikipedia, 2023