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メドゥーサの首 (カラヴァッジョ)

『メドゥーサの首』(メドゥーサのくび、伊: Testa di Medusa)、あるいは単に『メドゥーサ』(英: Medusa)は、イタリアのバロック期の巨匠ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョが1597年から1598年ごろに制作した絵画である。油彩。カラヴァッジョを代表する神話画で、ギリシア神話の英雄ペルセウスによって退治された怪物メドゥーサの頭部を描いている。メドゥーサの首は円形の盾の表面に描かれており、その顔はカラヴァッジョ自身の肖像画であると言われる。2つのバージョンが存在しており、一般的によく知られているものは第2のバージョンとされ、枢機卿フランチェスコ・マリア・デル・モンテの依頼で、第3代トスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチに贈るために制作された。現在はフィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されている。また第1のバージョンとされる、カラヴァッジョの署名が入ったやや小さなサイズの作品が個人コレクションに所蔵されている。

主題 ギリシア神話によると、怪物メドゥーサはもともと髪の美しい女性であった。しかし海神ポセイドンの愛を得たメドゥーサは傲慢になり、女神アテナの怒りを買うことになった。伝えられるところによると、メドゥーサはアテナの神殿でポセイドンと関係を持った。あるいは自身の髪をアテナの頭髪よりも美しいと自慢した。これに憤慨したアテナはメドゥーサの髪を蛇に変え、彼女の顔を見た者が石に変わるようにした。さらに彼女を殺そうとする英雄ペルセウスを助けることさえした。のちにペルセウスがメドゥーサを殺そうとした際に、メドゥーサを見ることなく殺せるよう案内したのはアテナであり、ペルセウスは彼女たちが眠っている間に青銅の盾に写ったメドゥーサの姿を見てその首を切断した。彼女が殺されたとき、メドゥーサの姉妹たちは殺害者を探したが、ハデスの兜をかぶり、ヘルメスのサンダルを履いたペルセウスを発見することはできなかった。ペルセウスはさらにエティオピアでメドゥーサの首を使って海の怪物を石に変え、アンドロメダを助けた。その後、ペルセウスはメドゥーサの首をアテナに捧げると、アテナはそれを神盾アイギスに組み入れたと伝えられている。

制作経緯 本作品を依頼したのはフェルディナンド1世・デ・メディチに仕えていたフランチェスコ・マリア・デル・モンテ枢機卿である。発注に関する契約書は発見されていない。デル・モンテは芸術と科学に強い関心があった博識な人物で、芸術の後援者として、当時居住していたローマのマダマ宮殿でカラヴァッジョを庇護していた。デル・モンテが本作品の制作を依頼した目的は、フェルディナンド1世に絵画を贈るためであった。大公は1588年以降、剣や甲冑、盾などで構成された武具のコレクションを蒐集し、ウフィツィ宮殿2階の3つの部屋に展示していた。そこで枢機卿は絵画が描かれた盾を贈ることによって、大公のコレクション形成に貢献しようとした。カラヴァッジョと枢機卿は協力し、主題の選択と図像の考案を行ったと考えられている。

作品 カラヴァッジョは緑色の背景の画面中央にメドゥーサの首を大きく描いている。彼女は顔を歪ませながら目を見開き、大きく口を開いている。メドゥーサの頭部では彼女の頭髪である9匹の蛇がとぐろを巻きながら絡み合い、胴体から切り離された首からは鮮血が噴き出ている。メドゥーサの頭に対して画面左上から光が差し込み、画面右に影が落ちている。盾の縁は黒地の帯状装飾で囲まれ、金色の唐草文様が描かれている。

メドゥーサの首の図像は古代から魔除けとして機能し、甲冑、宝飾品、陶器、建築などの装飾に使用された。本作品もその伝統と関係があると考えられているが、16世紀の一般的な魔除けとしてのメドゥーサの首の図像とはいくつかの点で異なる特徴的な形で描写されていることが指摘されている。たとえば首の背後に描かれた影が挙げられる。盾の前面は凸型の形状をしているが、盾に描かれた絵画の中には凹状の壁に囲まれた空間があって、メドゥーサの首はその空間の中に浮かんでおり、影が凹面の壁の表面に当たっているかのような錯覚を引き起こす。メドゥーサの首に対してこうした影が描かれることは非常に珍しく、描き方も独特である。もう1つの特異な部分は、メドゥーサの首から流れ出る鮮血である。流血しているメドゥーサの首の図像は非常に珍しく、基本的に英雄ペルセウスのメドゥーサ退治を扱った作品に限られており、この場合においても必ず血液が表現されるわけではない。ただし、本作品ののちにフランドルの巨匠ピーテル・パウル・ルーベンスは流血をともなうメドゥーサの首を描いている。

17世紀の史料はメドゥーサの顔をカラヴァッジョの自画像としている。カラヴァッジョの署名はされていない。支持体である円形の盾本体はポプラ材で制作され、前面は凸状で半球体状に丸みを帯びている。この部分に1枚のキャンバスが張られ、その上にメドゥーサの頭部が描かれている。かつては16世紀の馬上槍試合の盾をカラヴァッジョが塗り直したものであると信じられていたが、X線撮影を用いた科学的調査により、カラヴァッジョに完全に帰することができる作品であることが分かっている。

カラヴァッジョの同時代の詩人ガスパレ・ムルトラは1604年のマドリガーレで本作品について言及している。

来歴 本作品に関する最古の記録は1598年9月7日のメディチ家の目録である。デル・モンテは同年4月13日にローマを出発して、7月25日にフィレンツェに到着し、9月7日まで滞在しているが、このときデル・モンテは完成した盾をフィレンツェに運んでおり、滞在期間の間に大公に盾を贈呈したと考えられている。贈呈された盾は9月7日に武具コレクションの管理者であるアントニオ・マリア・ビアンキ(Antonio Maria Bianchi)に引き渡されており、同日のメディチ家の目録には「緑色の背景の中央にメドゥーサの首が描かれた、金色の唐草文様の装飾が施された小型の円形盾あるいは円形盾」と記載されている。そののち盾は遅くとも1631年までには宮殿で展示されていた。1631年の目録では「頭の髪が全て蛇からなるメドゥーサの頭を描いた盾」と記載されている。 その後、大公の武具コレクションは1770年代に解体され、そのほとんどは売却されたが本作品は残された。

1597 until 1598
Oil on canvas
60.0 x 55.0cm
00289175
画像とテキストは Wikipedia, 2023 から提供

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ウフィツィ美術館
ウフィツィ美術館
常設コレクション