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快楽の園

『快楽の園(かいらくのその、蘭: Tuin der lusten、西: El jardín de las delicias)』、または『悦楽の園(えつらくのその)』は、初期フランドル派の画家ヒエロニムス・ボスが描いた三連祭壇画。ボスが40歳から60歳の1490年から1510年の20年間のいずれかの時期の作品で、1939年からスペインのマドリードにあるプラド美術館に所蔵されている。ボスの作品の中でも最も有名な作品で、かつ最も大がかりな作品である。この絵画はボスが画家としての最盛期にあったときに描かれ、この作品のように複雑な寓意に満ち、生き生きとした表現で描かれているボスの作品は他に存在しない。

来歴 『快楽の園』の制作年度ははっきりしていない。ルードヴィヒ・フォン・バルダスは1917年の著作で、ボスの若年期の作品ではないかとしている。しかしながら1937年のシャルル・デ・トルネイの著作以来、20世紀美術史家の間では、この絵画が1503年から1504年にかけて描かれた作品か、あるいはもっと後になってから描かれた作品であるという見解で一致している。どちらの見解であれ、制作年度の根拠はこの作品における空間表現の「古典的」な手法にある。現代になってからの年輪年代学の測定で『快楽の園』に使用されているオーク板が1460年から1466年の間に切り出されたものであり、少なくともこの作品がその年代以降に描かれたことが判明した。絵画の支持体として木板を使用する場合には、経年変化によるひび割れなどの原因となる水分を抜くために一定期間そのまま保管されるため、このオーク板にボスが『快楽の園』を描いたのは板が切り出された年代よりも数年以上後のことになる。さらにこの作品には「新世界」である南アメリカ原産の果物であるパイナップルが描かれていることから、クリストファー・コロンブスによる1492年のアメリカ大陸の発見以降に描かれたと推測されている。しかしベルナール・ヴァルメは年輪年代学による測定を根拠に、『快楽の園』はもっと早い年代に描かれたものであり、「新世界」の産物が描かれているというのは誤りで、作品に描かれているのはアフリカの産物であると主張している。ヴァルメは、ボスが古典的手法にこだわってこの絵画を描いたというデ・トルネイの考えを否定し、より新しい芸術性を求めていたとした。そしてこの絵画がナッサウ=ヴィアンデン伯エンゲルベルト2世 (en:Engelbert II of Nassau) の依頼に応じて制作されたもので、その時期はエンゲルベルト2世がスヘルトーヘンボスで金羊毛騎士団の会合に出席した1481年か、その直後であると主張した。

『快楽の園』が最初に文献に現れるのは1517年で、ボスが死去した翌年にあたる。16世紀のイタリアモルフェッタの律修司祭で美術愛好家でもあり、枢機卿の随行員としてヨーロッパ各地を巡ったアントーニオ・デ・ベアティスの記録で、この作品がブリュッセルのナッサウ伯爵邸宅の装飾になっているというものである。ナッサウ伯爵邸は貴顕の集まる建物で、政府首脳や宮廷高官が訪れることも多かった。この絵画は誰かの依頼によって描かれた作品であり、「たんに...ボスの創造力の趣くままに」描かれたものではない。1605年の記録には、この絵画のことが『イチゴの絵画(strawberry painting)』と記載されており、これは中央パネルの目立つ場所に赤い実をつける「イチゴの木」とも呼ばれるマドロナの木が描かれていることに由来する。また、『色欲 (La Lujuria)』と表現したスペイン人著述家もいた。

ルネサンス人文主義の洗礼を受けたブルゴーニュ領ネーデルラントの上流階級層がボスの絵画のコレクターとなっていたことも考えられるが、ボスの没年直近でその作品の収蔵場所がはっきりしているものはほとんどない。『快楽の園』の依頼主は当時ハプスブルク家統治下のネーデルラント総督あるいは支配者だったナッサウ=ヴィアンデン伯エンゲルベルト2世(1504年没)か、その後継者ヘンドリック3世・ファン・ナッサウ=ブレダだった可能性がある。デ・ベアティスの旅行記には「奇怪なものが描かれた数枚の板絵がある。海、空、樹木、草原など様々なものが描かれ、貝から這い出る人々、四羽の鳥に運ばれる男女など、あらゆる人種がそれぞれに異なる行動やポーズで表現された作品だ」と記述されている。前述のようにこの作品はナッサウ伯爵邸に飾られており多くの人々の目に触れる機会があったため、ボスの評判や名声はヨーロッパ中に知れ渡った。『快楽の園』の評判がいかに高かったかは、ボスの死後まもなくして多くの贋作が出回ったことや、裕福なパトロンの依頼に応じた油彩、版画など多くの複製品が現存していることからも推測できる。複製されたのは中央パネルのみの場合がほとんどで、ボスが描いたオリジナルそのままに表現されているが、オリジナルよりも小さなサイズで制作されることが多く、作品の質的にも劣っている。ボスの死後に次世代の芸術家たちによって、壁面を飾るタペストリーとして複製されることもあった。

『快楽の園』は他に類を見ない異端の祭壇画であり、特に中央パネルには宗教的なモチーフが描かれていないことなどから依頼主が誰であるか不明となっていたが、1960年代に発見されたデ・ベアティスの旅行記が新たな視点を与えた。当時のフランドルの画家たちが手がけた二連祭壇画の多くは個人からの依頼で制作されたものであり、少数ではあるが個人からの依頼で制作された三連祭壇画もあった。しかしボスが描いた『快楽の園』はそれら個人所有のものとは違って異例にサイズが大きく、さらに個人から依頼された宗教絵画にはその依頼主が描かれる (en:Donor portrait) のが通例であったが、そういった人物像は描かれていない。しかしながら『快楽の園』の大胆で奔放な内容からすると、この絵画に描かれているような不道徳な行為を強く戒めていた当時の教会が依頼主とは考えにくい。しかし、数十年後の1566年には、マドリード近郊のエル・エスコリアル修道院の壁面を飾るタペストリーのモデルとして『快楽の園』が選ばれている。

ヘンドリック3世が死去すると、『快楽の園』は甥である沈黙公ウィレム1世が相続した。ウィレム1世は後にスペインに反旗を翻すオランダ革命 (en:Dutch Revolt) を主導し、オラニエ=ナッサウ家の祖となる人物である。しかし1568年にアルバ公フェルナンドがこの作品をウィレム1世から没収し、スペインへ持ち去った。そしてフェルナンドの庶子でスペイン軍人のドン・フェルナンドの所有となっている。1591年にはスペイン王フェリペ2世が競売に掛けられていた『快楽の園』を買い取り、2年後にエル・エスコリアル修道院に奉納している。1593年7月8日の奉納記録には、「油彩三連祭壇画、ヒエロニムス・ボスによって様々な奇怪なものが描かれており、『山桃 (el Madroño) 』と呼ばれている」という記述がある。そして1939年にエル・エスコリアル修道院が所蔵していた他の数点のボスの絵画とともにプラド美術館に移譲され、現在に至っている。『快楽の園』の保存状態は部分的によくない箇所もあり、特に中央パネルの蝶番周辺の顔料の剥落が目立っている。

後世への影響 ボスは非常に個性的な画家で、類を見ないほど空想的な作風であったため、同時代の他の優れた芸術家たちに比べるとその影響力は弱かった。しかしながら後世になり『快楽の園』の構成要素を自身の作品に取り入れる芸術家が出てくる。1525年頃に生まれたピーテル・ブリューゲルはボスの画家としての技量と創造性が非凡なものであるとして、『快楽の園』右翼から多くの要素を、現在ブリューゲルの絵画で最も有名なものとなっている数点の作品に持ち込んだ。女戦士を率いる女性を描いた『悪女フリート』や1562年頃の『死の勝利』に描かれている奇怪な生物は『快楽の園』の右翼パネルの地獄の描写を参考に描かれており、アントワープ王立美術館によれば「奔放な想像力と人目を引く色使い」も『快楽の園』から借用されている。

オーストリアハプスブルク家に仕えたイタリア人宮廷画家ジュゼッペ・アルチンボルド(1527年 - 1593年)はブリューゲルのような地獄の光景は描いてはいないが、風変わりで魅力的な作品を描いた。それは、野菜、根、繊維など自然界に存在する様々なもので人物の顔を表現した肖像画である。これらの風変わりな作品は、実物をありのまま正確に描写することから脱却するという、強い意志で描かれたボスの表現手法から多大な影響を受けている。17世紀のフランドル人画家ダヴィド・テニールス(1610年頃 - 1690年) は画家としてのキャリアを通じて、ボスと同じ主題の『聖アントニウスの誘惑』『地獄に連れゆかれる裕福な男』、ブリューゲルと同じ主題の『悪女フリート』などを描き、ボスとブリューゲルの世界を自身の手法で再現してみせた。

その後、20世紀初頭にボスの作品は再び脚光を浴びることになる。陶酔的な心象絵画、奔放な創造性、無意識下への放浪などの特性を持つシュルレアリスムの先駆けとなった画家たちが、ボスの絵画に新たな興味を示したのである。ボスが描いた心象イメージは、特にジョアン・ミロ とサルバドール・ダリ に多大な共感をもって迎えられた。2人とも最初にボスの絵画に触れたのはプラド美術館所蔵の『快楽の園』で、この作品に感銘を受けた両者はボスを美術史における優れた先達であるとして高く評価した。ミロの『耕地』には鳥の群れ、水面から顔を出す生物、肉体を持たない巨大な耳など『快楽の園』とよく似たものがいくつか描かれている。フランスの文学者アンドレ・ブルトンが1942年の著書『シュルレアリスム宣言』で、シュルレアリスムの萌芽として名前を挙げた芸術家はギュスターヴ・モロー(1826年 - 1898年)、ジョルジュ・スーラ(1859年 - 1891年)、そしてパオロ・ウッチェロ(1397年 - 1475年)だけであった。しかしながらシュルレアリスム運動が広まると、すぐさまボスとブリューゲルの存在がシュルレアリスムの画家たちの間で知られるようになった。ルネ・マグリットやマックス・エルンストも『快楽の園』から多大な影響を受けた画家である。

2009年にプラド美術館は『快楽の園』を、所蔵する最重要絵画14点の一つに選び、14,000メガピクセルの高解像度でGoogle Earthに登録した。

between 1490 and 1500
Oil on oak panel
205.5 x 384.9cm
P002823
画像とテキストは Wikipedia, 2023 から提供

これはどこで見つかりますか

プラド美術館
プラド美術館
常設コレクション